誉田八幡宮の付近は、南北朝から室町戦国の各時代を経て、江戸初期の元和年間にかけて戦略上の要地であったため再三古戦場の舞台となったところである。すなわち、南北朝初期の正平年間には、北朝方の細川兄弟の軍と楠木正行の間で合戦が行われ、室町中期の享徳年間には畠山政長と義就の間で再三にわたり誉田合戦が行われた。すこし降って、永正元年(1504)には、前記の孫に当る畠山植長(たねなが)と義英との間で合戦のあとで和議となり誉田八幡宮「社前の盟約」が結ばれたのもこの境内であった。大阪夏の陣の折には、大阪方の武将 薄田隼人正もこの境内に大陣を置きこの地より出撃して道明寺近辺で、討死をとげたのである。
戦国時代の西の国合戦址
明応2年(1493年)2月、足利将軍義植は畠山義豊を追討するため、畠山政長・尚順の味方をして河内に進攻し、高屋城の畠山義豊を攻め立てた。3月26日、両軍の先陣が「誉田西の口」で合戦を行ない、畠山義豊方では坂門(西浦)・豊岡・葦原・野崎・高柳の5部将が討死し、畠山政長方では和田(旧楠木党)・菊並・中小路・中村・鴿の5部将がそれぞれ討死した場所である。
「河内守護 畠山氏について」
畠山氏の河内支配は永徳2年(1382)基国が河内守護に任ぜられて以来、元亀3年(1572)昭高が家老遊佐信教に攻められ自殺するまでの約200年間であった。畠山氏では一族による内紛が多く持国の実子義就と反義就派のたてた持国の養子政長が争い、これが応仁の乱(1467〜1477)の原因となった。長禄4年(1460)義就の四カ国守護職が政長に移るに及び親子孫の3代にわたり河内は戦乱の巷となっていく。
誉田林古戦場碑
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